旅行

江戸時代に天領として栄えた城下町 大分県日田市豆田町周辺

大分県の日田市というところをご存じでしょうか?

水郷とよばれる日田は九州のほぼ中央に位置し、江戸時代には、豊後日田として3万2,000石という堂々たる天領の地であったところです。

現在も町の随所に天領時代の面影が残っていて、古い町並みが魅力的な場所です。

今回は日田市の豆田町付近を訪問してきましたので、レポートしていきます。

日田への行き方

管理人は今回、車を利用して、別府市内から大分自動車道を利用し日田まで行くことにしました。

歴史探訪

廣瀬資料館

日田市の豆田町周辺は江戸末期、漢学を学ぶために全国から集まってきた多くの書生さん達が町中を闊歩していたそうです。

この時代、なぜ日田が全国に有名であったかというと、廣瀬淡窓という方が、漢学の塾(咸宜園)をひらいたからなのです。

ここで、廣瀬淡窓(以下淡窓)という人物について紹介しておきます。

淡窓は、日田の富商の家にうまれ、年少のころ福岡で学んだだけで、病弱だったために江戸などに留学せず、日田に帰って私塾(咸宜園)をひらきました。

彼はこの日本最大規模の私塾を24歳で開講し、50年にもわたり教えつづけました。その間、入門簿によれば、3081人という多数の青年がこの塾で学んだのです。

塾生の出身地は奥州のはしから対馬まで及んでいたそうです。

廣瀬資料館(上の写真)には、塾の入門簿や淡窓の日記、そして掛け軸など貴重な淡窓ゆかりの品々が展示されていました。

廣瀬資料館から徒歩10分くらいの場所には咸宜園跡(上の写真)があります。

建物はよく補修されていて、日本のわらぶき建築の見本としても非常に価値のあるものです。

管理人が訪問したときは実際に部屋の内部を見学することができました。

また、同じ敷地内に咸宜園教育研究センターという建物もあり、ここでは咸宜園に関するガイダンス映像が流れていたり、図書室などもあり、淡窓についていろいろと、調べることができるようになっていました。

日本丸館

江戸末期(1855年)に創業を開始したおくすり屋さんです。心臓と熱さましの特効薬として「日本丸(にほんがん)」という薬を販売していてそうです。

全盛期には海外(朝鮮・ハワイ・ブラジル)にまでも販路を広げていたようです。

建物内は薬品の製造に使われていた道具や販売促進のためのポスターのような物まで、多数展示されていました。

建物の中にあった大広間には立派な雛人形なども飾られ、繁栄をきわめた往時の様子を感じることができました。

食事休憩

蕎麦処草八

豆田町界隈を歩いていると、おなかがすいてきたので、「草八」というお蕎麦屋さんに入ることにしました。

口コミもよかったので、日田に来たときは一度行ってみたかったのです。

平日でしたが、お昼時だったせいか、お客さんはとても多かったです。とは言え2~3分ほどで、席に案内してもらえました。とりあえずランチメニューを注文し、待つこと10分弱で、お料理が運ばれてきました。(上の写真)

肝心のお蕎麦のほうは、しっかりとした歯ごたえで麺の中心部までよく締まっているな、という触感でとても満足でした。

まとめ

以前、司馬遼太郎さんがエッセイで次のようなことを書かれていました。

日本の農村を考える場合、その土地が、江戸期において天領(幕府領)であったか、それとも大名領であったかを考えておくことが重要である。

日田を訪れてみて、なるほどなと思いました。

天領はもともと豊かな土地が選ばれていましたし、その上、租税も安かったために、百姓屋敷なども立派です。また、商人たちも京都などで立派な品を買い付けていたので、豆田町にあるいくつかの資料館では現在でもそういった貴重な品をみることができます。

みなさんも是非、日田を訪れてみてはいかがでしょうか。